新型コロナウイルス感染拡大の影響で、さまざまなイベントが中止や延期になり、最初の3カ月で3兆円に上る経済的な損失が出たといわれる。そんな中、イベント制作会社を設立したG.G.Cの川村圭佑代表代表取締役。震災やネットカフェ生活なども経験し、コロナの逆境も乗り切った川村代表は「地元岩手でイベントをやって盛り上げたい」と意気込む。


コロナ乗り越え、イベントで地域活性を


●コロナ禍での船出
日本政策投資銀行によると、2020年3~5月に地域の祭りや音楽ライブや演劇、プロスポーツ、国際会議、展示会など約1万5000件が中止となり、観客の宿泊費、飲食代、会場の使用料、スタッフの人件費などの経済的損失が3兆256億円に上ると推計された。その後もイベントの中止が相次ぎ、営業時間短縮要請に応じた飲食店には自治体からの協力金が支給されるが、イベントに同様の制度はなく、「飲食店のような補助を希望」「イベント業は置き去り」との声が上がった。
まさにコロナの感染拡大が始まった2020年3月に川村代表は独立、起業した。「立ち上げた瞬間、全く仕事がなくなって貯蓄を食い潰しました」とコロナ禍での船出を振り返る。約3カ月が経過し、「さすがにまずい」と感じたころ、持続化給付金の受け付けの業務を請け負えた。窓口対応の責任者としてクレームの対応などを担当したが、「申請で困っているお年寄りを手伝ってあげて、『あんたのおかげで助かった』と泣いて喜んでもらえた」と笑顔を見せる。
●大震災を経てネカフェ生活に
岩手県盛岡市の老舗のラジコン専門店に生まれた川村代表は、青森の大学を卒業し、大手出版社に入社したが、すぐに退社し、地元岩手に戻って、置き薬の営業の職に就いた。「最初に所長から『50円の包帯を売ってこい』と言われて、一生懸命売ると、それがきっかけになって1万円、2万円になる。営業のノウハウを教えてもらいました」と語る。
その後、歯科機器の営業をしていたときに東日本大震災が起きた。被害が大きかった陸前高田市などを担当していた川村代表は、発生後3日目には現地入りした。「緊急車両扱いで現場に行くと、そこら中、ブルーシートやがれきだらけで、歯科医の先生たちも着の身着のままで治療されていました」という。川村代表は歯科医院の復旧に奔走し、一段落ついたところで、仕事を辞めて、上京を決意する。
東京の知人を頼りに夜行バスで東京に向かった川村代表は、イベント会社の経営者を紹介され、翌日に都内で行われたPRイベントを手伝った。「丸の内のオフィス街でサンプル品を配って1万円ぐらいもらえた。芸能人も来て、これはいいと思った」と、イベントの仕事に打ち込むことになる。それから3年間、イベントの仕事をしながら東京、盛岡、仙台をキャリーバッグひとつで行き来し、ネットカフェや漫画喫茶に寝泊まりする生活を送った。
「シャワーも、コインランドリーもあるし、1泊1500円ぐらいのところを探して、月4万5000円ぐらいなので、ホテル暮らしのちょっとディスカウント版ですね」と苦笑するが、「コンサートや東京ゲームショーのようなものから、駅前のティッシュ配り、株主総会までみんなイベントで、コロナになってからも国のコロナに関する国民の補助にイベント会社が入っています。めちゃくちゃ楽しくても、必ず終わりがあって、大学生みたいな気分でやってきた」と目を輝かせる。




●つらい仕事を率先してやる
こうして東京に拠点を据え、軌道に乗ったところで起業したが、コロナ禍を迎えた。一時は仕事がなくなったものの、商業施設での集客イベントなどから再び動き出した。「コロナで施設自体も空き店舗が出ていて、そこを活用した密にならないワークショップを開いたり、通常のイベントでも配信をしたりと、これまでと違うイベントの形ができてきた」とコロナ禍でのイベントの変化を実感した。
さらに国際的なスポーツイベントにも参画するなど実績を積み重ねて、手応えをつかんだ。「イベントには、庶務というポジションがあって、控え室を作ったり、弁当を管理したり、トランシーバーを用意したり、充電したり、最後回収したりのような裏方で、朝一番早く行って、最後まで残っていないといけなくて、ギャラもそんなに変わらない。誰もやりたがらない仕事をあえてやり続ける。するとまた仕事が来る。つらい仕事を率先してやることが神髄です」と力を込める。
川村代表は「岩手に恩返しがしたい」と何度も口にする。「仙台は七夕、青森はねぶたとか、お祭りがあるけど、岩手はそこまでのものがない」という。別の地域で、空き店舗の多い“シャッター商店街”を活用したイベントにかかわっている川村代表は「やりたいことが多すぎて予算がないという中で、工夫をしてどうしたら集客できるか、考えながらやっています。こうした経験を岩手に持っていって、地域にお金を落としてもらう仕事をしたい」と意欲を見せる。