日本サッカーがまだプロ化を迎える以前、1968年のメキシコ五輪でサッカー日本代表は銅メダルを獲得した。それ以降の日本サッカー創成期に中心選手として世界と戦った異端の天才ドリブラー、金田喜稔氏。現在は日本サッカー界のレジェンドが参加する「日本サッカー名蹴会」の会長をつとめ、自身の技術やマインドを伝える活動を行っている。これまでのサッカー人生を振り返るとともに、“1968年生まれ”ならではの思いを巡らせた。
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●「サッカーを通じて得た感謝」をまた次の世代へ
「現代は、自らがインターネットを通じて自分の考え方を発信できて、興味関心のあることにこちらからアクセスできる、僕らの若い頃と比べてとても良い環境だと思いますよ」。自身のiPhoneを掲げながら、そう切り出した金田氏。1993年にJリーグが開幕する以前の日本サッカーリーグ(JSL)は、読売サッカークラブなどの一部を除いて、今のJリーグのクラブの前身となる三菱、古河、日立、ヤマハ発動機、フジタ、ヤンマー、日産など、いわゆる大手企業のサッカー部でリーグが構成されていた。「サッカーの日本代表に選出されれば、一流企業に就職できるという憧れや考え方が当時はあった。野球と違って、サッカーは日本に”プロ”がなかったから」と金田氏は当時の時代背景を振り返る。
中央大学を卒業後、幾多のオファーの中から日産自動車への入社を選び、現在の横浜F・マリノスの前身にあたる同社サッカー部の中心選手として活躍。少年時代にサッカーの魅力に取り憑かれ、毎日練習に明け暮れた。当時は「三菱ダイヤモンドサッカー」という番組でしかサッカーの試合を観ることができなかった。北アイルランド代表FWのジョージ・ベストに憧れた金田氏は、テレビ画面を食い入るように観ては、そのプレイを目に焼き付け、真似をして何度も練習した。世界中のサッカー中継に簡単にアクセスできるようになった現代と比べると、当時の集中力、記憶力、想像力などは現代人より研ぎ澄まされていたのかもしれない。
日産自動車サッカー部を7冠達成の栄光に導いた金田氏は、プロ契約に背を向け、惜しまれながら1991年にユニフォームを脱いだ。その後、日産自動車の総務部に在籍し、銀座の地でサラリーマン生活を2年半ほど経験する。そして1993年、日本中が熱狂し社会現象を巻き起こしたJリーグ開幕。それと比例して解説業が多忙になった金田氏は、Jリーグの試合のある日は午後4時半には退社し、送迎のリムジンに乗り込みスタジアムへ移動する日々が続いた。「僕が早々に退社することで、僕の業務をその先輩方が負担してくれていたんですよ。僕はそれに甘えるのが嫌で、会社を辞めて独立する決意をしました」。
ただ金田氏はこれまでの経験を振り返って、「挫折した経験は一度もない」と続ける。「60歳になっても今日まで好きなサッカーしかしてきていないから、挫折はない。むしろ日産自動車の総務時代に解説者として必要な”言葉の訓練”が出来たから、それを支えてくれた周囲の方々への感謝があるだけです」と、温かい眼差しで恩恵を噛みしめた。
現在は日本サッカー名蹴会の活動を通じて、サッカー界の仲間らとともに全国へ足を運び、この時代を生きたからこそ分かり得るメッセージを伝え続けている。これまでのヒストリーへの感謝を噛み締めながら、金田氏は今日もボールを蹴る。
RECORD
1958年生まれ。広島県出身。中央大学在籍時、2年生で日本代表に選出。1977年に行われた日韓戦で代表初ゴールを記録し、日本代表歴代最年少得点ゴール(19歳119日)として今も刻まれている。大学卒業後、日産自動車株式会社サッカー部(現・横浜マリノス)でも中心選手として活躍し、国内タイトル7冠獲得に貢献。国際Aマッチ58試合に出場した。現役引退後はサッカー教室の開催やサッカー解説者を務める。2010年より日本サッカー名蹴会の会長に就任。